花魁が馴染み客のもとへ出向き、吉原の中を練り歩いたおいらん道中。シャン、シャンと金属の棒を鳴らしながら先導する金棒引きを先頭に、木遣りをうたいあげる女性たち、花魁の名入りの提灯、そして最高位の遊女であった花魁が、将来は花魁を期待される新造や禿をともなって、道中を披露します。
優雅な所作や豪華な衣装など、吉原のおもかげをご堪能ください。
木遣り
木遣りとはもともとは木や石を運び出す際に息を合わせるための作業唄で、のちに火消しなどの鳶の人々によって発展、祝儀の際にうたわれるようになりました。吉原では女性が木遣りをうたうことが許され、道中の際にも披露したと伝えられています。
御座敷芸
吉原の座敷では芸者衆や幇間衆が様々な芸で客人をもてなしました。
その中から、大鼓と小鼓を一人で演奏する吉原ならではの芸「二調鼓」、唄や三味線が華やかに場を彩る「さわぎ」などを披露します。
花魁 座敷の場
花魁は客人をもてなすために楽器演奏や茶、書、和歌など教養を身に着け、位も高い存在でした。そのため、吉原では客人は一つ一つ手順をふまなければ馴染み客となることはできない仕組みでした。
ここではついに客人が花魁と馴染みとなる場での、盃事などを描いた座敷の場をお届けします。
吉原囃子
約50年前、吉原最後の料亭・松葉屋の主人の声がけで邦楽打楽器演奏家・西川啓光が、民俗芸能に江戸の粋を織り交ぜて作調し、吉原ゆかりの人々が披露したお囃子がありました。
時を経て吉原が注目されるいま、吉原囃子として姿を新たにした音色をお楽しみください。
もともとは作業唄であった木遣りは鳶の人々によって発展し、祝儀の時などにうたわれていました。吉原では女性たちがうたうことを許され、吉原俄などの祭礼の際には芸者衆が手古舞の装いで披露したと伝えられています。
花魁の身の回りの世話をする10歳前後の少女のことを禿と呼びます。禿の衣装にかかる費用はすべて付く花魁自身が背負うため、禿の装いが豪華であるほど花魁の勢いや人気ぶりを表したとも考えられます。
禿は花魁のそばでそのふるまいや吉原のしきたり、芸事を学びながら成長していきます。
遊女はその美しさや芸事の技量によって、階級とそれに対する呼び名は厳密に分けられ、遊女が所属する場である見世(みせ/遊女屋・妓楼などとも呼ぶ)の中で、最高位の遊女が花魁や太夫と呼ばれました(時代によって呼び名は変化したとされる)。
位の高い花魁と客人が馴染みになることは容易くなく、しかるべき手順が必要でした。まず、客人がはじめて座敷にあがる「初会(しょかい)」では、芸者衆や幇間衆が芸で場を取り持ちますが、花魁は客人と言葉を交わさず盃のお酒も飲むことはなかったとされます。二回目に座敷にあがる「裏を返す」では言葉や盃を交わすようになり、ようやく三回目で「馴染み」となるという仕組みでした。
花魁は客人をもてなすために、歌舞音曲や教養に秀でた存在であり、髪型や着物、帯など当時の最新のものを装うことで、文化や流行を生み出す存在でもありました。
花魁の妹分として、花魁の身の回りの世話を行う10代半ばの遊女の見習いを新造と呼びます。その中でも、禿の時から素質を見込まれた新造が「振袖新造」に選ばれ、将来的には花魁となることを期待される存在であったと考えられます。
吉原の見世では、雑用や警備などを行う男性が多く働いており、道中の際には金属の棒を鳴らしながら先導する金棒引きや、花魁の名入りの箱提灯や傘を掲げたり、高い下駄で外八文字を描いて足を運ぶ花魁に肩を貸して支えたりする役目なども担っていたとされます。
和楽器の楽しさ、 かっこよさをお伝えするユニット。今回、囃子組曲「江戸華音浮世絵」(太左衛構成)他にて参加。リーダー・望月太左衛は重要無形文化財・長唄(総合指定)保持者。
東京浅草組合
浅草花街の伝統を継ぐ芸者衆による粋で艶やかな踊りを披露する。
吉福社中
吉原には稲荷神社があり、遊女たちの信仰を集めるなど狐に縁があった土地。そんな吉原で大晦日に行われた門付け芸「狐舞ひ」を吉福社中が披露する。
浅草たいこばん
浅草を拠点に世界で活動する和太鼓奏者・小林太郎が率いる和太鼓チーム。気迫溢れる演奏に気も引き締まる。
google mapで「隅田公園 山谷堀広場」周辺を見る
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